スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

笑福亭鶴瓶

今まで「漫才ブーム」が始まって、テレビにお笑いという文化が流れてきた時から、今現在のバラエティー番組まで、それらに関わってきたタレント、番組、笑いの構造、そしてそれらに対する人々の評価という視点などから、いろいろなことを考えてきた。
すると、今現在でも人気のあるお笑い芸人に、ある1つの共通点があることがわかった。
それは当然のことなのではあるが、なにかのブームなどの流れに乗ったり、自らがブームを起こすことによって有名になり、それから自分なりの道をそれぞれが進むことによって人気であり続けているということである。
しかし、1人だけ例外のお笑い芸人がいる。それが「笑福亭鶴瓶」である。
なぜ「笑福亭鶴瓶」だけが例外なのかというと、笑福亭鶴瓶は芸能界入りしたときから、いつでも世の中に合わせてブームに乗るということも全くせず、「ビートたけし」や「タモリ」、「明石家さんま」などとは違い、大御所となった今でも笑いを取り続け、常にお笑い芸人として勝負して、自分の道だけを進んでいるからである。

ビートたけしは35歳を越えた辺りから頭の回転が遅くなったと言って、お笑い芸人として第一線では戦わずに、番組のキャラクターとして出演することが多くなり、何かを作り出すときには、じっくりと考えてから作り出すようになった。
タモリも、テレビでは教養のある番組やバラエティー番組の司会者として活動しているし、
明石家さんまは、お笑い芸人一筋という感じはするが、司会だけを行い、挑戦的なことはあまりやることは無く、絶対に面白くなるであろうと思うことだけをやっている気がする。
しかし、この「笑福亭鶴瓶」は大御所となった今でも笑いを取り続け、常にお笑い芸人として勝負して、自分の道だけを進んでいる。

「笑福亭鶴瓶」は、落語家として弟子入りするときから他の芸人とは違う。
笑福亭鶴瓶(本名 駿河学)は、大学時代に京都産業大学落語長屋という落語研究会に所属していて、古典落語にオートバイを登場させるなどといった常識はずれな落語を披露していた。
そんな鶴瓶が落語の参考にするために、安井金比羅宮で開かれた米朝一門の落語会で、6代目笑福亭松鶴の落語を聞き、6代目笑福亭松鶴の弟子入りをすることに決めた。
その時の松鶴は、高座に上がると「あっ!」と固まった後、客席にいた僧侶を示して「あの坊さんの頭見たらネタ忘れてもた。オチだけ言うて降りま」と言い、本当にオチだけを言って2分ほどで降りてしまった。それを見た鶴瓶は「エライ人や」と思ったことで弟子入りを決めたのだという。
しかし、何度も6代目笑福亭松鶴に弟子入りをすることを頼むが断られ、両親にも断られるが、何度も通ったことで松鶴の「父親の許可が出たら入門を認める」との言質をもらった。
しかしそれでも両親には断られていた駿河青年は一計を案じ、「酷い悪さをしてしまい、怒った相手が父親同伴での謝罪を求めている」と架空のトラブルを父親に打ち明ける。息子に連れられるまま相手の家に上がると松鶴が現れ、駿河青年は先手を打って父親の許可が出たことを報告し、松鶴も父親の了承を得たものと解釈し入門を許可することになり弟子入りすることになる。

そうして1972年2月14日、11番弟子として入門し、笑福亭鶴瓶の名を与えられるようにはなるが、落語の稽古を一度も付けてもらうことは無かった。
なぜなら松鶴が鶴瓶の素質を見込み、笑福亭の代々の伝統である「捨て育て」により個性を伸ばすため、そして松鶴が鶴瓶は古典の言葉ではなく、現代の言葉で笑いを創っていったほうが良いと判断したためなどの理由で、稽古を付けることが無かったのだという。
それでも松鶴によって、高島屋大阪店ホール(現在はグランドホール)で行われた落語コンクールにエントリーされてしまった際には、入門前に学校などで披露していた「いらちの愛宕詣り」を覚え、その江戸版である「堀之内」(10代目桂文治の伸治時代のもの)の断片を交えつつ、古典落語なのにオートバイに乗った人物を登場させるなど、入門前より行っていたアレンジを適当に加えて演じた。
審査員だった松鶴と香川登枝緒からは「時代錯誤も甚だしい」「こいつの落語は落語やおまへん。現にワタイ(落語の)稽古つけてない!」と酷評されてしまった。
そのほかにも、高座にラジカセを持ち込み、笑いが欲しいシーンでスイッチを入れて笑い声を出し、客の笑いをあおるなど、当時としては斬新なアイデアを披露したりしたが、これも松鶴に楽屋で叱られてしまった。
しかし、なんとしてでも活動の場が早く欲しかった鶴瓶は、超能力(透視とスプーン曲げ)が使える事を松鶴に打ち明け、鶴瓶の超能力を目の当たりにした松鶴は驚愕し、「ウチに超能力を使う弟子がおる」と松鶴自らがTVに鶴瓶を売り込むことになる。
当然ながらその超能力はテーブルマジックの類で、周囲に仕掛けを漏らしつつ頭から超能力を持つ弟子と信じきっている松鶴という場面に持ち込み、必死になって売り込む松鶴に便乗して業界関係者に顔と名前を覚えてもらい、これを手がかりにTV、ラジオと進出するための足場を作ることになるのである。

そうして鶴瓶は、初のレギュラー番組である東海ラジオの深夜番組「ミッドナイト東海」で活躍し、以降、近畿・中京地区でラジオ・テレビを中心に活動することになる。
関西芸能界の先輩からも所属事務所を問わず可愛がられ、松竹芸能所属であるにもかかわらず、桂三枝がメイン司会の吉本興業系列の番組に出演するなど、吉本と松竹が強い対立関係にあった当時としては異例の存在にもなっていた。
そして1975年辺りから、その面白さから徐々に東京の全国ネットの番組に出演するようにもなるが、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の「独占!男の時間」(生放送)に出演した際には、担当ディレクターの傲慢な態度に反発して、股間を露出したうえ、カメラに股間を押し付け、さらに社長の大事にしていた時価数百万円の錦鯉を踏み殺すという暴挙を働いた。その後、司会の山城新伍の計らいで番組最終回に出演したが、そこではさらに肛門を見せた。事件を重く見た東京12チャンネルは、鶴瓶を無期限の出入禁止の処分としたのである。
そのため鶴瓶は東京進出が失敗に終わる。
その後鶴瓶は、1982年から4年間続いた毎日放送の「突然ガバチョ!」の司会で再び脚光を浴び、毎日放送のキー局であるTBSでも遅れネットで放送が開始されるようになり、再度東京進出を目指すようになる。
しかし関東ではこの番組は人気が出ず、わずか4カ月で打ち切りとなった。
そのため多くの週刊誌からは、また東京進出失敗と叩かれるようになってしまったのだ。
しかしそんな鶴瓶に対し、「ビートたけし」が「この男を大阪に帰らせてはいけない」と鶴瓶を東京に留まらせた。
それは鶴瓶司会のTBS系列「世界No.1クイズ」が、裏番組の「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」に太刀打ちできず打ち切りになった時、 面識はなかったものの鶴瓶の才能を認めていたビートたけしが、「世界No.1クイズ」を制作していたイーストという番組制作会社の重役に対して「このまま大阪に返したら、イーストは笑われるぞ」「鶴瓶を活かせないような制作なら、お前らの仕事なんかしねえ」と鶴瓶をバックアップするような発言をした。
そこからまた鶴瓶は徐々にレギュラー番組が増えていって、1987年4月からは「森田一義アワー 笑っていいとも!」に、今日まで23年間レギュラーとして出演し続け、そして鶴瓶の代表番組ともいえる「鶴瓶上岡のパペポTV」が放送開始されることになる。

その「鶴瓶上岡のパペポTV」とは、1987年4月14日から1998年3月31日まで放送された、笑福亭鶴瓶と「上岡龍太郎」という2人による深夜のトーク番組である。
この「鶴瓶上岡のパペポTV」によって、笑福亭鶴瓶は東京進出を果たし今の地位を築くようになる。
では、この「鶴瓶上岡のパペポTV」で、なぜ成功することができたのだろうか。
しかしこの「鶴瓶上岡のパペポTV」を知るためにはまず、「上岡龍太郎」という人物を知る必要がある。
「上岡龍太郎」は、1960年に漫画トリオという横山ノックもいたトリオで活躍し、8年で解散することにはなるが、その後30年は関西のテレビを中心に司会者として絶対的な人気を誇っていた。
その芸風は流暢な喋りから、無駄を全て取り払った理論性膳としたことを語り、心霊モノや霊媒師・超能力といった科学的には全く証明されていないようなものに対しては切れ味鋭い毒舌を吐きながら、時には芸人として話にオチをつけて爆笑を取るといった芸風で、世間からは知性で笑わせられる芸人として人気が高かった。
しかし自身への芸には「僕はしょうもないことはよく覚えていて、大事なところの知識がない。これを僕は『知識のドーナツ化現象』と名付けています」と語っている。
この『知識のドーナツ化現象』の部分で何か思い出すことは無いだろうか。
この『知識のドーナツ化現象』とは、「島田紳助」で司会者のテクニックを述べたことがある。
実はこの司会者のテクニックとは、上岡龍太郎が行なっていた司会者としてのテクニックなのだ。
つまり、今テレビでいろいろなブームを作り出している「島田紳助」の司会の原点が、この「上岡龍太郎」なのである。
そんな「上岡龍太郎」と笑福亭鶴瓶のトーク番組である「鶴瓶上岡のパペポTV」とは、どのように面白かったのだろうか。
「上岡龍太郎」は、笑福亭鶴瓶らのことを『素人芸の極致』と評している。
それは、「上岡龍太郎」が考える話芸とは、「今まであったことを自分で整理して、無駄を省いて、的確な言葉で、判りやすく伝えるものである。」と考えている。
しかし、「笑福亭鶴瓶」や「明石家さんま」、「タモリ」などのいわゆる漫才ブーム以降に出てきた芸人は、今までの話芸というものよりも一般人が話すような感覚で話をしていき、それによってそこからの話芸とは、よりリアリティーを表現するものに変わったのである。
それに対して「上岡龍太郎」は、『素人芸の極致』と評しているのである。
その『素人芸の極致』の「笑福亭鶴瓶」と、「今まであったことを自分で整理して、無駄を省いて、的確な言葉で、判りやすく伝えるものである。」と考えていて、流暢な喋りから無駄を全て取り払った理論性膳としたことを語る「上岡龍太郎」というこの2人がトークをすることによって、お互いの個性がよりはっきりと分けられるようになる。
すると「笑福亭鶴瓶」のリアリティーのある独等な面白い話で視聴者や観客は笑うが、今まであったことを自分で整理せず、無駄も省かず、的確な言葉ではなく、判りやすく伝えるものでもないため、ちょっとした矛盾が生じてくるのである。
その矛盾を「上岡龍太郎」が指摘し、それに対しての「笑福亭鶴瓶」のフリートークならではのアドリブがこの番組の面白いところなのである。
この面白さによって笑福亭鶴瓶は東京進出を果たし、今の地位を築いたのである。
そしてこのフリートークは評判を呼び、その「笑福亭鶴瓶」のリアリティーのある独等な話は「鶴瓶話」と呼ばれ、現在でもその「鶴瓶話」で番組や舞台などにも出演し続け活躍している。

ここまで「笑福亭鶴瓶」について考えてわかったことは、実は「笑福亭鶴瓶」とは、「ビートたけし」のように今のバラエティー番組や芸人の基礎となるようなものを作っているということである。
「鶴瓶上岡のパペポTV」では、フリートークによって追い詰められて、そこからアドリブで笑いを取っていくというものは「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」で少し形は違うが受け継がれていて、そして無茶苦茶なことをして伝説を作るということに関しては「江頭2:50」よりも前に作り出している。
つまり今のお笑い芸人で熱狂的人気を誇っている「ダウンタウン」「江頭2:50」という2組の芸人の原点を、この「笑福亭鶴瓶」は作り出したのである。

しかしこんな「笑福亭鶴瓶」なのではあるが、1つだけ疑問に思うことがある。
それは、こんなに活躍しているのにもかかわらず、世間からはあまり凄いとは思われていないということである。
「ビートたけし」「タモリ」「明石家さんま」のように「お笑いBIG3」とも呼ばれることもなぜ無いのだろうか。
それはビートたけし、タモリ、明石家さんまは今ではバラエティーでは絶対的な地位にまで上り詰めていて、そこから降りるときは引退するときであり、「お笑いBIG3」と賞賛してもそれが裏切られることはない。
しかしこの「笑福亭鶴瓶」は、大御所となった今でも笑いを取り続け、常にお笑い芸人として勝負して、自分の道だけを進んでいる。
そのためこれからも賞賛し続けられるということはないかもしれない。
だから「お笑いBIG3」と賞賛して、それが裏切られるという可能性もあるから、「お笑いBIG3」には入ることが出来ないのだ。
今まで書いたエピソードのように「笑福亭鶴瓶」の話は、この人自身が落語の話であっても良いと思うくらい面白い。
だからこそ、この「笑福亭鶴瓶」という話は、最高に面白いオチを望んでしまうのである。
だからこの「笑福亭鶴瓶」という人物は、その「笑福亭鶴瓶」という話のオチを見るまでは、賞賛されることは無いのではないだろうか。
スポンサーサイト
最新記事
カテゴリ
検索フォーム
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。