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ビートたけし

「ビートたけし」は、ツービートというコンビを組み「漫才ブーム」を牽引し、今のバラエティー番組の基礎を作り上げ、現在でも数多くの番組に出演しながら、「北野武」名義でも映画監督などの活動も行なっている。
しかしこの「ビートたけし」という人物が、どれほどの人物なのかは、あまり若い世代の人には知られていない。
今のビートたけしは、とにかく超大物芸人であることは誰もが知っていることなのではあるが、それはビートたけしがお笑い芸人として活躍していたときの評価というわけではなく、映画監督、作家、俳優、歌手、東京藝術大学大学院映像研究科教授、元漫才師としてのいわゆる文化人としての評価であり、その上で「芸人の頃は凄かった」という評価を受けているというだけであって、超大物芸人であるとしか思われていないのではないだろうか。
2008年のフジテレビで放送された「27時間テレビ」では、タケちゃんマンの格好で芸人というフィールドに戻ってきたが、その時の共演者も、それを見た視聴者もいわゆる芸人という眼差しではなく、何か特別な人が出てくれたという情のようなものであり、お笑い芸人ビートたけしとしての眼差しではなかったはずである。
「ビートたけし」という人物は、間違いなく実際に今のバラエティー番組の基礎を作り上げてきたお笑い芸人なのである。
しかしビートたけしが、どのようにしてバラエティー番組の基礎を作り上げていったかということは、今の若い人たちには知られていない。
それでも今では、誰が「ビートたけし」の生き方を批判したとしても、全く意味が無いくらいの絶対的王者にまで上り詰めている。
ではそんな「ビートたけし」の経歴から、ビートたけしはどのようなものを作り続けてきたのかを考えてみようと思う。

1972年(昭和47年)夏、ビートたけしは浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始めた。そして同劇場の経営者兼座長でもあった深見千三郎に師事し、そしてビートきよしとツービートを結成することになった。
当時のツービートの漫才は、演芸場のギャラは安いため、地方のキャバレーなども回るようになるが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、酩酊して舞台に上がることが多く、客を毒舌でいじったり、舞台で性器を露出したりするなどのことを行っていた。
そして自分の出番ではないときには、演芸中に全裸で後ろを通ったりなどもしていた(しかし、その時の脱いだジーパンの後ろポケットには、毎日違う文庫本が入っていたらしい)。
しかしそれらの行動が徐々にツービートのスタイルとなり、それがツービートの原型となっていた。
そして、後に「島田紳助」が漫才を始めることにもなったきっかけである「B&B」の漫才に衝撃を受け、テンポの速い漫才を取り込み、ビートたけしがひたすら猛烈な勢いで毒ガスギャグと呼ばれるギャグをしゃべっていく漫才に切り替えることになる。
そしてそのネタで演芸場では人気となるが、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられずに激しい抑圧を受け、漫才協団からは脱退を求める声すら起きたという。
そのため1976年(昭和51年)、その漫才協団が主催する「NHK新人漫才コンクール」に、ツービートは3年連続で出場したが、最優秀賞を獲得することは出来なかった。
しかし1979年(昭和54年)10月、「花王名人劇場」において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。
なぜなら古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「毒ガス漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡VSツービート」と銘打って放送したからである。
この企画が好感触を得たことで、「漫才ブーム 2」でも述べたように澤田隆治というプロデューサーが、「花王名人劇場」を漫才ブームの火付け役にしたため、「B&B」「ザ・ぼんち」らと共に「ツービート」も、「毒ガス漫才」として漫才ブームに乗っていくことになる。

では、この漫才ブームに乗ることができた「毒ガス漫才」とは、どのようなものなのだろうか。
このビートたけしが織りなす漫才のネタの主題となったのは、ジジイ・ババア・ブス・カッペであり、さらにウンコとヤクザとガキが頻繁に登場した。
また、金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいち早くギャグに取り入れた。
更に、日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」、「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」、「寝る前にきちんと絞めよう親の首」、「赤信号みんなで渡れば恐くない」などの一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。
このように、普通の人が言ったらかなり危険なネタをぎりぎりのところで笑いにしてしまうところがビートたけしは天才だったのだ。
人間とは必ず毒を必ず持っているものである。
しかしその毒は普段の生活で言うことはできない。だからそんなタブーを犯す行為に人々は賞賛を送るのである。
しかしただ危険なことを言うだけであれば誰でもできる。ただしゃれにならないことを言えばいいだけだからである。
それを笑いに変えることができるから、ビートたけしは漫才ブームを牽引したのである。
では、どのようにその毒を笑いに変えることができるのだろうか。
それは毒があったとしても、必ず人々を共感させるということである。
「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」、「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」、「寝る前にきちんと絞めよう親の首」、「赤信号みんなで渡れば恐くない」
これらは、毒はあるが、なんとなく共感してしまうはずである。
このように、何を言ったとしても誰もが共感できることであれば、それはたとえ毒であったとしても笑ってしまい、人々の心の中に残っていくのである。
だからこれらの不謹慎ネタは、「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、それに対してビートたけしは、「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけたこともあったほどである。
これは、そのときには共感して笑いがあったのに、後になって批判をするなということなのではないだろうか。
なぜ「ビートたけし」が、このような人々の心に残っていくようなギャグをいろいろと考えることができたのかはわからないが、毎日違う文庫本を読んでいたというエピソードがあったというところから考えると、いろいろな名言などを本などから参考にしていたのかもしれない。

そしてそれから「漫才ブーム」全盛となり、1980年6月、ツービートのネタ本である「ツービートのわッ毒ガスだ」を発刊し、年末までに約85万部の売上げ、更に話題となり、その時期にツービートとして出演していた「スター爆笑座」の司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、ビートたけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれることになる。

しかし、この時の「ビートたけし」は漫才ブームに危機感を感じていたという。
この漫才ブームはいずれ終わってしまうと時代の先を読み、この漫才ブームに乗っているだけでは消えてしまうと考えたビートたけしは、1981年1月1日から「ビートたけしのオールナイトニッポン」を放送開始して、「ビートたけしのオールナイトニッポン」でも述べたように、自分もお笑い芸人や放送作家になれるのではないかという一般人を増やし、お笑いのファンを多く増やすきっかけとなった番組を作り、
そして1982年10月には、漫才ブームがあったからこそ人気であった「笑ってる場合ですよ!」を終了させ、「オレたちひょうきん族」は、数々の人気キャラを輩出し、「明石家さんま」でも述べたように明石家さんまの活躍などもあり、「オレたちひょうきん族」は土曜の8時はTBSの「8時だョ!全員集合」ではなく、土曜の8時はフジテレビの「オレたちひょうきん族」だという地位を見事奪い取った。
そのためビートたけしは、ここから漫才師という肩書きからお笑い芸人として、バラエティー番組の基礎となる番組を作っていくことになる。

1982年から1984年にかけて、ビートたけしの生放送番組に出演中に弟子志願者が押しかけ、相当の数が集まったことから、それらの芸人たちをたけし軍団として、集団で行うバラエティー番組を模索し始めることになる。
そこから日本テレビ系列で、1983年1月9日から1999年3月28日にかけて放送された「スーパーJOCKEY」や、1989年1月2日から1996年4月6日まで、同じく日本テレビで放送されていた「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」で、スタジオ内で行なわれる熱湯風呂や、バスに乗りクレーンで吊るされて海に落とされるといった超過酷な企画を作り出し、たけし軍団を活躍させ、「ダチョウ倶楽部」「出川哲朗」などのリアクション芸人というものも作り出したのである。
また、知識の面でも「世界まるごとHOWマッチ!!」でクイズに回答者として出演したり、実際の中学校の入試問題を使い、それをクイズ番組にした「平成教育委員会」、外国人と討論していく番組である「ここがヘンだよ日本人」、政治家との討論番組「ビートたけしのTVタックル」など、これらをすべてビートたけしが考え出し、バラエティーとして成功させたのである。

更に、TBSで1986年5月2日から1989年4月14日まで放送されていた「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」では、総工費1億円をかけてたけし城と呼ばれるアトラクションが建てられ、毎回約100人の一般応募者からなる攻撃軍が、たけし軍の仕掛けた数々の難関ゲームを攻略することで得られる100万円を目指す番組である。
このアトラクションの面白さや、攻略を防ごうとするたけし軍の攻撃、ド派手に失格となったり、絶妙な運動神経で攻略していく一般応募者の面白さから大人気となり、今は日本では「SASUKE」「DOORS」「東京フレンドパーク」などがこれを参考にしていて、少し前までは「ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャーこれができたら100万円!!」などの番組もこの番組が基礎となっていて、世界各国でもこの番組を真似したものが放送されている。
1985年4月には、「ビートたけしのスポーツ大将」が放送開始され、スポーツとバラエティーが融合した新しいバラエティー番組が始まる。
この番組ではプロのスポーツ選手と芸能人が真剣にスポーツで勝負し、芸能人がプロのスポーツ選手の凄さに圧倒される姿を面白がると共に、真剣にスポーツをするためスポーツ本来の面白さも味わうことができた。
1985年4月14日から1996年10月6日まで日本テレビ系列ほかで、「ビートたけしのスポーツ大将」と同じ時期に放送されていた「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」も放送開始し、ダンス甲子園、ボクシング予備校、勇気を出して初めての告白、寝込みのタレントをバズーカ砲で襲うなどの過激なロケ企画を作り出し、
「ビートたけしのスポーツ大将」と「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」によって、そこから「ドキュメンタリー系バラエティー番組」の先駆けともなった。
そしてこの「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」は「ひな壇芸」というものを作り出した番組であると「FUJIWARA」でも述べたが、もう1つ新しく「ロケ」というバラエティー番組の基礎となるものも作り出した。
過去に「オレたちひょうきん族」のブラックデビルの1件でビートたけしとは縁が切れていた「高田純次」がロケに出て、スタジオで見ているゲストを笑わせるVTRを作り続けたのである。
そしてそれはこの「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の成功にも繋がった。
現在ではこのロケとは一般的とされて、若手芸人の修行の場にもなっている。
それができるのはロケとは、いくらでも編集というものができて、若手芸人は何も気にすることなくいろいろなことにチャレンジすることができるものであるからである。
それまでもビートたけしが作り出したのである。

このようにビートたけしは、先陣を切っていろいろなものに挑戦し続け、それを実際に成功させてきた。
そのため「明石家さんま」「タモリ」と共にお笑いBIG3とも呼ばれるようになる。
しかし、このように成功し続けてきたビートたけしは、1986年12月9日、「フライデー襲撃事件」が起こる。
しかし、これもビートたけしの挑戦なのではないだろうか。
もちろん法律を犯していることなのではあるが、自分を信じて突き進み続けた途中にこのような事件があっただけであり、新しいものを作り続け、自分を信じて突き進んだからこそ、誰が「ビートたけし」の生き方を批判したとしても、全く意味が無いくらいの絶対的王者にまで上り詰めたのではないだろうか。
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