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ダウンタウン

1982年(昭和57年)に、吉本興業のお笑い芸人を養成する学校であるNSC(ニュー・スター・クリエーション)が開校した。
吉本興業がこのNSCという学校を開校した理由は、これからのテレビ業界を支えるためのソフトを作るためである。
どういうことなのかというと、今までは吉本の劇場に出演していた芸人で面白いお笑い芸人は、テレビに出演するという事しかなかったが、1980年代の「漫才ブーム」を経験して、これからはテレビのためのお笑い芸人を作るべきであると考えた。
例えば、お笑い芸人が100組いたとして、一組に5分のネタが行えるようにしておけば、500分ものテレビ用のコンテンツが作れることになる。
そのために吉本興業はNSCを開校させたのである。
そんな言わば、吉本興業の利益のために作られた学校の第1期生として入学してきたのが、現在の「ダウンタウン」である。

そんな「ダウンタウン」ではあるが、現在「ダウンタウン」というコンビとしては、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」「ダウンタウンDX」「リンカーン」などの冠番組を行いながら、「浜田雅功」は個人で司会者、俳優、歌手などの仕事を行い、「松本人志」は芸人以外にも本の出版や映画監督なども行い、そのお笑いに対する生き方が芸人だけでなく、数多くの人々に賞賛され続けている。
ではこの「ダウンタウン」とは、どのような芸人人生を過ごしてきたのだろうか。

「松本人志」と「浜田雅功」は、もう既にコンビを組んだ状態で、開校したてのNSCに入学してきた。
現在のNSCなどの芸人養成所では、このようなことはよくあることなのではあるが、その当時はもう既にコンビを組んだ状態で入学してくるなんてことは考えられないことであった。
なぜならお笑い芸人とは、既に活躍している芸人の弟子として、芸人の礼儀などを学びながら芸を勉強し、ある程度のことが出来るようになってから、やっと漫才やコントのグループを組むことが出来るからである。
しかし「松本人志」と「浜田雅功」は、既に小学生の頃からお互いに漫才やコントなどの芸を披露していた。
「浜田雅功」はモノマネなどをしていて、「松本人志」はその当時から笑福亭仁鶴、桂春蝶らの落語も好んで聴き、「ザ・ドリフターズ」などの番組もよく観ていて、子供ながらに計算された漫才やコントなどの芸を披露していた。
そして高校で松本は、「漫才ブーム」で活躍していた「島田紳助」のお笑いのセンスに憧れ、「島田紳助」とお笑いで勝負して勝つことを目標にした、そんな言わばセミプロの「松本人志」と「浜田雅功」とのお笑いコンビが、開校したてのNSCに入学していたのである。
そしてNSCに入学して3ヵ月後の7月に、いきなり「第3回今宮子供えびすマンザイ新人コンクール」に「松本・浜田」として出場することになったのである。
新人の漫才師のコンクールではあるが、もうしっかりと舞台で活躍している芸人も出場している大会で、しかもその当時のダウンタウンは、まだ一度も観客の前で披露したことは無かった。
しかしなんと「松本・浜田」は、そんな状況であってもその大会で大賞を取ってしまったのである。

では、NSCに入学して3ヵ月後であっても、漫才師のコンクールで大賞を取ったほどの、その当時の「ダウンタウン」の漫才とは、どのようなものなのだったのだろうか。
その当時の「ダウンタウン」は、まだ観客の前で披露したことは無かったが、NSCには一線で活躍している吉本興業の先輩芸人が講師として赴くことがあり、「島田紳助」、「明石家さんま」、「オール巨人」も講師として赴いていた。
その三人がある時、たまたま集まった席で「NSCにめぼしいのはおるか?」という話になり、「二人すごい奴がおる」「一組だけ(ダウンタウン)やな」と、三人ともダウンタウン(松本・浜田)で意見は一致していたという。
そして「島田紳助」は、その当時の「ダウンタウン」の漫才を、その当時活躍していた自身の漫才コンビである「紳助竜介」を比較に出し、「紳助竜介」の漫才は野球で言ったら150キロの直球で観客を驚かせる漫才で、その当時の「ダウンタウン」の漫才は、まだ荒削りではあり、100キロの遅い球ではあるが、今までにない発想とテクニックで観客の意表をついていく「ダウンタウン」にしかできないセンスのある漫才であると評したことがある。
そのセンスによって、NSCに入学して3ヵ月後であっても、漫才師のコンクールで大賞を取ったのだろう。
しかし「島田紳助」は、その当時の「ダウンタウン」の発想やセンスは認めていたが、1つ疑問に思うことがあった。
それは、その当時は「漫才ブーム」隆盛の時代で、漫才の歴史を変えた「B&B」「紳助竜介」「ツービート」によるテンポの速い漫才が主流であり、独自の発想やセンスはあるが、テクニックで観客の意表をついていくテンポの遅い「ダウンタウン」の漫才では、この「漫才ブーム」が作り出した流れに乗ることが出来ないと疑問に思うことがあったのだという。
それでも漫才師のコンクールで大賞を取ったという経緯から、その当時の「ダウンタウン」は、新人芸人では異例の速さで吉本興業が持っている劇場に出演することになったのである。
そしてNSCを卒業した1983年5月に、吉本の大阪本社に約千人もの署名が送られてきた。
その内容とは、「もっと『松本・浜田』のテレビや劇場の出番を増やしてほしい」と書かれている署名であった。
これによって「松本・浜田」から、「ダウンタウン」というコンビ名となりデビューすることになる。

しかしそれでも「ダウンタウン」がデビューしたときには、「漫才ブーム」は既に下火となっていて、吉本興業の劇場にはほとんど観客がいない状態であった。
しかも「ダウンタウン」には師匠がいないということから、他の芸人たちからはあまり好かれるということはなく、出る杭は打たれるという状況であった。
更に「横山やすし」からは、「ザ・テレビ演芸」という番組内のコーナーで、新人勝ち抜きオーディションにライト兄弟の名で出場した際に、家庭内暴力についてのネタを披露したところ、二人の漫才を「チンピラの立ち話」と酷評し、「テレビでやるものではない」と叱責された。
「NHK上方漫才コンテスト」では、大爆笑をとったにも関わらず、最優秀新人賞をあまり笑いが無かった同期の「トミーズ」が受賞したり、
「ABCお笑い新人グランプリ」では、最優秀新人賞をとったが、一部の審査委員からは「理解出来ない」「観客には受けていたようだが、どこが面白いのか分からなかった」と酷評もされている。
そんなダウンタウンの暗黒の時代に、それと同時に、NSCの同期であった「トミーズ」「ハイヒール」などが次々にテレビで活躍し出していた。
しかしそれらはあくまで、まだ「松本人志」の面白さがあまり伝わっていなかっただけの話しであり、実はその時一番問題だったことは、「浜田雅功」のつっこみが弱いということであったのだ。
しかしそれは「オリエンタルラジオ」でも述べたように、つっこみとは「笑いの間」を経験によって勉強しなくてはいけないため、まだまだ若手の「浜田雅功」が、その一番お笑いの技術で難しいものである「笑いの間」を理解することは不可能である。
しかし、「浜田雅功」はかなりの負けず嫌いであり、「のりおよしお」の漫才の西川のりおの早口で喋り続けている間に入れる絶妙なよしおのつっこみなどを研究したり、中田カウスボタンのボタンのつっこみを研究したりして、つっこみの技術を磨いていったのである。

そして1985年5月、「紳助竜介」が解散することになる。
「紳助・竜介」を解散した島田紳助は、記者会見の席上で解散の理由について、「うめだ花月で巨人・阪神とか、サブロー・シローとか、ダウンタウンを見ていると(自分達は)明らかに負けている。それが悔しくて辛い」と述懐した。
しかし、次の日の新聞で出た記事は、「紳助・竜介解散!巨人・阪神、サブロー・シローらに勝てない」という記事であった。
「ダウンタウン」はまだその当時、全国的に知名度は全く無く、“ら”の存在であったのである。
では、なぜまだ“ら”の存在であった「ダウンタウン」に、天下を取っていた「紳助・竜介」は勝てないと思ったのだろうか。

それは「ダウンタウン」の漫才が、その時既に完成していたからである。
前に、『「島田紳助」はその当時の「ダウンタウン」のセンスは認めていたが、疑問に思うことがあった。
それは、その当時は「漫才ブーム」隆盛の時代で、漫才の歴史を変えた「B&B」「紳助竜介」「ツービート」によるテンポの速い漫才が主流であり、独自の発想やセンスはあるが、テクニックで観客の意表をついていくテンポの遅い「ダウンタウン」の漫才では、この「漫才ブーム」が作り出した流れに乗ることが出来ないと疑問に思うことがあった』と述べた。
しかし「B&B」「紳助竜介」「ツービート」によるテンポの速い「漫才ブーム」の漫才は、若者に標準を合わせたただそのときだけのブームであり、「B&B」「紳助竜介」「ツービート」の漫才が今見ても面白いのは発想が今でも面白いものだからである。
それに比べ、「ダウンタウン」の漫才は、若者はボケの発想で笑わせ、子供やお年寄りは漫才の技術や笑いの間などをその場に合わせて作り出し、子供からお年寄りまでどんな人でも笑え、今までになかったボケの発想によって感性の鋭い若者でも笑うことが出来る究極の漫才をその当時作り出していたのである。
そのときの漫才を「ビートたけし」は、『ダウンタウンの漫才は漫才ブームの頃の漫才と比べて、ストーリーがどんどん進んでいかないで、じっくりとその話題だけで笑いを取っていくが、そのネタ自体の発想は今までに無い発想で、観客の頭の中で描いた絵だけがいろいろな方向に進んでいく』というようなことを話していて、
上岡龍太郎は、「昔はボケもツッコミも観客から見下されていた。それがコント5号ではツッコミ(萩本欽一)が客よりも高い位置に行った。ツービートはボケ(ビートたけし)が客よりも高くなった。ダウンタウンは2人とも客よりも高い位置で芸をやっている。しかしこれからの漫才はどうなるのか」と評したことがあるほどである。
その究極の漫才を作り出したことによって「島田紳助」は、「誰かに負けたと思ったら実際はだいぶ負けている。だいぶ負けていると思ったら実際はめちゃくちゃ負けている」ということを、「オール阪神・巨人」「明石家さんま」のときと同じように感じ、「紳助・竜介」は解散したのだろう。

しかしその頃、世間ではその3ヵ月後の1985年(昭和60年)8月に、日航機が御巣鷹山に墜落し、関西地方は活気が無くなっていた。
それでもその2ヶ月後に、21年ぶりに阪神タイガースがリーグ優勝して活気を取り戻し、道頓堀の戎橋から川に阪神優勝で喜んだファンがダイブしたり、カーネル・サンダースの人形が川に落とされるという事件が起こる。
これでマスコミに大きく取り上げられて戎橋が有名になる。
そんな状況のすぐ後に、その戎橋のすぐそばで、吉本興業の劇場である心斎橋筋二丁目劇場が作られる。
その心斎橋筋二丁目劇場で、当時吉本興業の劇場で常に爆笑をとってきた「ダウンタウン」の初冠番組である「4時ですよーだ」が、1987年4月6日から、平日の16時に劇場から生放送の番組として始まった。
この番組の評判はすぐに広まり、関西では女子中高生を中心にファンが公開放送に詰め掛け、この番組を観たいがために部活を辞め、16時になると街から若者がこの番組を見るために家に帰るという現象が起き、「ダウンタウン」を一目見たいがために、戎橋には若い女性が集まり、その「ダウンタウン」を一目見たいがために集まった若い女性をナンパするために若い男性も戎橋に集まることから、戎橋はそのときから「ひっかけ橋」と呼ばれ、「ダウンタウン」が大阪の街を歩くと、自衛隊が出動しなければいけなくなるという噂が出来るほど関西では大人気となった。
のちの、「ナインティナイン」「雨上がり決死隊」「FUJIWARA」「ほっしゃん。」「宮川大輔」「バッファロー吾郎」らによる「吉本印天然素材」が作られることになったのも、このダウンタウンの人気の影響を受けて作られたものでもある。

そしてそのことから、芸人とは師匠に弟子入りするという風習は激減し、NSCなどの養成所に入ってから芸人となるというのが、お笑い芸人の常識になるきっかけとなったのである。
そのため「ダウンタウン」が売れ出してからNSCに入学する人が劇的に増えることになる。
それと同時に、「ダウンタウン」はあまり面白くない芸人を増やす原因となったとも言われている。
その原因は、前に述べた『「ダウンタウン」の漫才は、100キロの遅い球ではあるが、今までにない発想とテクニックで観客の意表をついていく「ダウンタウン」にしかできないセンスのある漫才である』というところに原因があると島田紳助が発言している。
それは、「この2人の芸風が簡単に見えて、誰でも出来そうに思われた。」そして、
「ダウンタウンはしっかりとした漫才ができているうえでの芸風だが、はじめからダウンタウンと同じような芸風でやろうとしている芸人が多い」
「みんな松本のダラダラしたしゃべりの表面だけ真似してるけど、それだけじゃ駄目。松本は本当は150キロの球を投げることができるのに、それをわざと100キロで投げている。他の奴らは110キロしか投げられないのに100キロを投げていて手を抜いている」と発言したことがある。
それを島田紳助は、あまり面白くない芸人を増やした原因であると言っているのである。

そして「ダウンタウン」は、関西で大人気となり関西では冠番組もレギュラー番組も増え、更に東京でも徐々に仕事をすることになる。
そして1988年10月には「夢で逢えたら」、1989年には「森田一義アワー 笑っていいとも!」、1989年10月からは「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」が始まったことにより東京に進出することになる。
しかしここで問題になってくることは、大阪の芸人は2度売れなくてはいけないということである。
「ナインティナイン」以外の、ダウンタウンよりも下の世代のほとんどの大阪の芸人は、大体東京に進出となるときに仕事が全くなくなって、0の状態から再スタートしなくてはいけない状態にまでなっている。
それを「ダウンタウン」は、「夢で逢えたら」というコント番組で「ウッチャンナンチャン」と共演し、「夢で逢えたら」でも述べたように今までのコント番組ではなかったチームワークの良さで人気が出て、
「笑っていいとも!」でも述べたように、「森田一義アワー 笑っていいとも!」に出演することによって「お約束」の存在になることができ、
他のいろいろな番組では、浜田がどんどん前に出て行き強引ながら、ため口で大物司会者であってもつっこむことによって距離感が縮まり、全国区の番組に自然に溶け込みながら、
「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」で、ダウンタウンにしか出来ない独自の笑いを追及する番組をやることによって東京進出することが出来たのである。

では、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」で行なった、「ダウンタウン」にしか出来ない独自の笑いとはどのようなものなのだろうか。
まず「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」とは、20年以上毎週日曜日の深夜に放送され続けていて、日本テレビでは「笑点」に次ぐ長寿番組であり、現在では2006年から4年連続で大晦日年越し特番をこの番組が担当しており、「NHK紅白歌合戦」の裏であっても毎回高視聴率を弾き出している番組である。
この番組の面白さは、もちろん絶対に笑ってはいけないシリーズや、ウソか本当なのかわからない企画なども面白いのではあるが、それらの企画を作り出し、ダウンタウンの才能を印象付かせたのが「フリートーク」である。

「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」の開始当初は、2人の漫才やコントが披露されたが、もちろん10回ほどでネタが尽きたため、1990年2月頃からフリートークを行う番組となった。
30分の前半は2人の近況などを話し、後半は視聴者からのハガキによる質問に松本人志が答えていくというもののである。
しかしこの視聴者からのハガキとは、ただの質問ではなく、現実ではありえないことを質問され、それを松本人志が答えていくというものなのである。
例えば、「松本さんは昔、暴走族のレディースの総長だったそうですが・・・」などという誰か聞いてもウソだとわかる質問にあえて乗っていき、そのウソが本当であるかのように話していって最後には爆笑させているというものである。
つまりダウンタウンは即興で、爆笑を取る漫才を毎週披露したのである。
これによって松本人志の頭の回転の速さや、発想の面白さを伝えることが出来て、更に即興漫才であるため、よくできた作り話の漫才に必要だった、演技力や技術、キャラクターを作るなどといったリアリティーを求める必要が無くなった。
そして、緊張と緩和という言葉を使わせてもらうとすると、即興漫才であるため、観客や視聴者を究極の緊張状態にまで高めることができて、そこから松本人志の頭の回転の速さや、発想で面白さを伝えるため、一気に緩和状態にまで落とすことができるという究極の漫才を誕生させたのである。
そのため、作りこんで笑いを取る漫才は、これ以降披露することができなくなってしまうが、他の芸人には真似できないダウンタウン独自の究極の漫才を作り出すことができたのである。

そしてその後、フジテレビ系列で1991年2月8日から毎週日曜日の夜8時にダウンタウン主演のコント番組である「ダウンタウンのごっつええ感じ」が放送開始される。
「ダウンタウンのごっつええ感じ」で述べたように、板尾創路が復帰し、コント番組に必要な協調性がないとレギュラーになることができなかった東野幸治がレギュラーとなり、「Mr.BATER」、「世紀末戦隊ゴレンジャイ」、「キャシィ塚本」シリーズ、「こづれ狼」、「やすしくん」、「産卵」、「みすずちゃん」、「殺人事件」シリーズ、「放課後電磁波クラブ」など、番組を代表するヒット作をどんどん生み出していき、大衆的に人気を集めると共に、「カッパの親子」「トカゲのおっさん」など、ダウンタウンの通のような視聴者を相手にするコントなどもヒット作に混ぜ放送していった。
これにより、今までのコント番組ではありえなかった、子供からお年寄りまで楽しく見ることができる番組であるにもかかわらず、笑いに関してはうるさい視聴者にも面白い番組を作り上げることが出来たのである。

そして1993年10月21日から、日本テレビ系列で毎週木曜22時から、今現在でも放送され続けている「ダウンタウンDX」、1994年10月17日からはフジテレビ系列で毎週月曜日の20時から放送開始された「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」がスタートする。
この「ダウンタウンDX」や「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」でも、ダウンタウンにしかできない笑いを作り出すことができた。
「ダウンタウンDX」も「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」も、ゲストの職種は全く違うが2つともトーク番組である。
しかし「ダウンタウンDX」には、お笑い芸人やトーク番組に慣れている俳優なども出演するが、あまりトーク番組になれていない女優やスポーツ選手なども登場する。
そして「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」も、音楽番組でありながらミュージシャンが登場してトークをする番組であるが、ゲストのミュージシャンはトークにあまりなれていないゲストである場合が多い。
そのためどちらの番組でも、ゲストが通常の世間話のようなトークをしてしまうことがよく起こる。
休日の昼に放送されているような番組であれば、それで正解なのではあるが、この番組はお笑い芸人のダウンタウンが司会の番組である以上、笑いがなくてはいけない。
しかしそれを求めすぎると、トークに慣れたゲストだけが登場することになってしまい、ゲストが固定されてしまう。
それを防ぐために松本人志は、通常の世間話のようなトークをしてしまうゲストのオチに、松本独自の笑いを即興で入れることによって、その通常の世間話のようなトークを面白い話に変え、場を盛り上げることによって、トークに慣れたゲストだけが登場することになってしまい、ゲストが固定されてしまうことを防ぎながら、お笑い芸人のダウンタウンが司会の番組というイメージを崩さない番組構成にすることができたために、今現在でも放送され続いている番組となっているのである。

そしてここから「ダウンタウン」はダウンタウンとしてだけではなく、「松本人志」「浜田雅功」として個人での活動も行なっていくようになる。

1994年9月、1994年から1995年にかけて「松本人志」が、週刊朝日に連載していたエッセイ「遺書」が発売され、異例の262万部を売り上げ、その後発売された「松本」も200万部以上を売り上げることになる。
この「遺書」「松本」も、かなりの計算が入って構成されている。
松本の文章は、誰かに対して批判的に書かれている文章がある。
しかしただの批判で終わっているのではなく、松本独自の笑いを随所に入れながら、お笑いの難しさを誰もが分かるように的確に説明し、そこからその批判している人がこれからどうすれば良いのかというようなことがメッセージ的に入っているために、直接抗議は来ないようになっている。
そして5回に1回くらいは、泣かせるような文章になっていたりする。
そのため、本として続けて読むようになったときには、笑いながらお笑いの難しさを理解することができて、感動もすることができるという完璧な構成によって作られた本になっているのである。
そのため異例の262万部を売り上げ、その後発売された「松本」も200万部以上を売り上げることになったのではないだろうか。

更に「松本人志」は、1996年10月7日からフジテレビで松本一人だけで大喜利を行なう番組である「一人ごっつ」をスタートさせ、それに伴い「24時間大喜利」を行った。
そしてお笑い芸人のライブでは破格の入場料1万円のコントライブ「寸止め海峡(仮)」や料金後払い制ライブ「松風'95」、コントビデオ「HITOSHI MATSUMOTO VISUALBUM」なども発売することになる。

一方の「浜田雅功」も、1995年3月15日に、小室哲哉のプロデュースで「H Jungle with t」として発売された「WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント」が200万枚を超えるヒット曲となり、同年の上半期1位(年間2位)となった。
そして1995年10月には、「人生は上々だ」で木村拓哉とのダブル主演でドラマを行い、
1996年頃には、浜田主演のドラマである「竜馬におまかせ!」の役作りの為に長髪にしたりするなど、次第にその容姿にも注目が集まるようになり、30代でありながらラフな格好をすることからファッションリーダーとしてファッション誌でも取り上げられるようになった。
この浜田のファッションを真似る人達は「ハマダー」と呼ばれるようになったのである。

「ダウンタウン」は、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」では即興で話さなくてはいけないフリートークという、他の芸人には真似できないダウンタウン独自の究極の漫才を作り出しながら、
「ダウンタウンのごっつええ感じ」では今までのコント番組ではありえなかった、子供からお年寄りまで楽しく見ることができる番組であるにもかかわらず、笑いに関してはうるさい視聴者にも面白い番組を作り上げることによって作りこんだ笑いでも爆笑を取り、
「ダウンタウンDX」や「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」では、通常の世間話のようなトークをしてしまうゲストのオチに、即興で松本独自の笑いを入れることによって、その通常の世間話のようなトークを面白い話に変え、場を盛り上げることによって、トークに慣れたゲストだけが登場することになってしまい、ゲストが固定されてしまうことを防ぎながら、お笑い芸人のダウンタウンが司会の番組というイメージを崩さない番組構成にすることができたために、今現在でも放送され続いている番組を作り出し、
「松本人志」個人では、「遺書」「松本」を異例の部数売り上げたことによって文才や構成力を印象付けることができ、
「一人ごっつ」や「24時間大喜利」、入場料1万円のコントライブ「寸止め海峡(仮)」、料金後払い制ライブ「松風'95」、コントビデオ「HITOSHI MATSUMOTO VISUALBUM」なども発売したことによって「松本人志」のお笑い芸人としての才能を印象付かせ、
「浜田雅功」も、歌手活動やドラマの主演を務めることによって、「松本人志」とは違った道で活躍したのである。

そのため「ダウンタウン」は、お笑い界で天下を取ることになる。
これにより、ほとんどの芸人がダウンタウンに憧れたことによりNSCに入学していて、「ダウンタウンが作り出すものが笑いなんだ。」「ダウンタウンで笑うことができないやつは面白くない」というような言わば宗教的な人気にまで登りつめることになる。
しかしこれによって、視聴者のダウンタウンの笑いに対するハードルは上がり、マスコミのダウンタウン(特に松本人志)に対する注目度も上がってしまった。
前に『上岡龍太郎は、「昔はボケもツッコミも観客から見下されていた。それがコント5号ではツッコミ(萩本欽一)が客よりも高い位置に行った。ツービートはボケ(ビートたけし)が客よりも高くなった。ダウンタウンは2人とも客よりも高い位置で芸をやっている。しかしこれからの漫才はどうなるのか」と評したことがある』と述べた。
この2人とも客よりも高い位置に立った「ダウンタウン」は、ほんの少しのことでも世間に騒がれる存在となってしまったのである。

そのため、「浜田雅功」はあまり変わることは無いが、
「松本人志」は、1998年7月19日放送の「ガキの使いやあらへんで!!」内のトークコーナーにおいて、「髪を2ミリにするわ」と発言し、次週の7月26日の放送から実際に坊主にしたことをきっかけに、お笑い芸人としての仕事もしながら、
日本テレビで2000年には「伝説の教師」というドラマ、
2001年には、「Re:Japan」という吉本興業所属のお笑いタレント11名で結成されたメンバーの一員として、「明日があるさ」をCDリリースし、年末には紅白歌合戦にも出場し、
2004年11月17日には、「浜田雅功と槇原敬之」のデュエット曲である「チキンライス」で作詞の担当なども行うような変化を見せ、
そして2007年、初めて映画監督としてデビューし、「大日本人」が上映開始される。

この映画監督として、必ず気になる存在となるのが「北野武」である。
しかし「北野武」とは違い、「松本人志」は松本独自の笑いを追及するために映画を撮ることにした。
そこで「大日本人」という映画は、今まで「ダウンタウンのごっつええ感じ」で行なってきた松本独自の笑いがあるコントを映画の中に入れ、その笑いがあるコントが社会風刺を比喩している作品を作り上げたのである。
「ダウンタウン」は現在、お笑いタレントとしていつでも面白い番組を作り続けながら、
「松本人志」は、日本の笑いというものを更に追及したものを、映画というジャンルで世界に広めようとしている。
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