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人志松本のすべらない話

この番組は、「ダウンタウン松本人志」の冠番組として2004年2月28日に放送開始され、半年に1回ほどの周期で放送されている番組である。
この番組のコンセプトは、「人は誰も1つはすべらない話を持っており、そしてそれは誰が何度聞いても面白いものである」というものである。
そしてこの番組はそのコンセプトだけにこだわるため、すべらない話をひたすら披露していくというシンプルなトーク番組だ。
しかしそのシンプルさのため、芸人の実力が全てあらわになってしまうという番組でもある。
そのため視聴者のみならず業界からも高い評価を得ていて、駆け出しの若手芸人の間では一度は出てみたい憧れの番組の1つとなっている。
そして、2000年代お笑いブーム終盤に入って「アメトーーク!」をはじめとした芸人は、トークが出来なければ生き残ることが出来ないといった風潮を作り出すことになった番組となっている。

この「すべらない話」で重要となってくるのは、「その話の構成力、笑いの間の作り方、演技力」である。
この「その話の構成力、笑いの間の作り方、演技力」が重要になってくるという芸は、この番組が始まる以前にも、しっかりとした芸として受け継がれてきた。
その芸とは「落語」である。
「今の落語について」でも、『落語とは「その話の構成力、笑いの間の作り方、演技力」が重要になってくる』と述べている。
しかし「今の落語について」では『日々変わっていくテレビと、これ以上新しくなることは無い落語が合わさることは無い』とも述べている。
しかしこの「すべらない話」は、「その話の構成力、笑いの間の作り方、演技力」が重要でありながら、視聴者のみならず業界からも高い評価を得ていて、駆け出しの若手芸人の間では一度は出てみたい憧れの番組の1つとなっているのである。それはなぜなのだろうか。

「すべらない話」とは言わば「現代落語」である。
すべらない話も落語と同じように、座ったままで、実際にあった話を話術だけで頭の中にその時の絵を描かせるというものである。
しかし落語とは大きく違うことは、「すべらない話」とはよくできた作り話ではなく、全てが実話であるということである。
しかし「千原ジュニア」や「島田洋七」でも述べたように、その話を聞く側にしっかりと伝えるために、多少は話を入れ替えたり、重要な部分は強めに言ったり、オチや話の展開に必要のない部分はあえて言わなかったり、その話をわかりやすくするために話をする前に別のことを話したりなどといった笑いの構成力によって作られた物語である。
つまり落語とは元々あった物語を自分なりにアレンジしたものであり、
「すべらない話」とは実際に体験したことを自分なりにアレンジしたものである。

ここで「島田紳助」で述べたことを思い出して欲しい。
『そもそも従来のやすしきよしを代表とする漫才とは、リアリティーが無くてテンポも遅い漫才である。
その漫才とは、良くできた作り話を2人以上の掛け合いで行うものであった。
実際にはありもしなかった結婚や引っ越しを話題にし、起承転結のある「良くできた作り話」をお笑いが好きだという人に向けてやっていたのが従来の漫才であった。
また漫才でもコントでも、その時そうであるというリアリティーがなくては、観客は笑ってくれない。だから従来の漫才は、作り話を本当にあったかのような演技や技術でリアリティーを表現しなければいけないものだった。
しかし、B&Bの漫才はそれと大きく違っていた。B&Bの漫才は、今までは作り話だった漫才の嘘臭い部分を全てとっぱらい、今の世の中に合わせたリアリティーのある漫才であった。
リアリティーのある漫才は、世間話をしているかのようで、その人の心が見えるのでとてもパワーがある。
紳助はここに目を付けることで、演技や技術でリアリティーに見せるという技術が無かったとしても、やすきよ漫才に勝てるのではないかと考えたのである。』
『しかしリアリティーのある漫才をやっているのに島田洋七の内面はあまり見えてこないと紳助は考えていた。
そこで紳助は、本当の自分をキャラクターにすることで、更に感情でリアルに伝えることができると考え、更に従来までの漫才師との差別化を謀った』
ここを読んで思うことは「すべらない話」とは、この漫才の歴史を変えた「B&B」「紳助竜介」「ツービート」らが作った「漫才ブーム」に似ているということである。
「漫才ブーム」では、やすきよ漫才の良くできた作り話を2人以上の掛け合いで行うものというものを、テンポや笑いの間を変え、キャラクターを作ることによってリアリティーを演出し、差別化をすることが出来た。
そして「すべらない話」では、実話であるということによってその話し手のキャラクターをみせ、落語との差別化を行ったのである。

更にもう一つ、落語との差別化をすることが出来た要素がある。
それは「すべらない話」のオチである。
落語のオチというものは、誰が聞いてもそこがオチだとわかるように話すことによって、話を終わらせるためのものである。
しかし「すべらない話」のオチの場合、その話し手しかその「すべらない話」のオチを知らない。
つまり聞き手はどこがオチなのかはわからない。
そのため「すべらない話」のオチは、ここがオチであるというインパクトと笑いを聞き手に与えなくてはいけないのである。
ここが「すべらない話」の短所でもあり長所でもあるのだ。
なぜならそこが一番難しく、そこが一番大きな笑いを起こすことが出来るところだからである。
では、松本人志をはじめとする芸人たちはその一番難しいオチを、どのようにして一番大きな笑いの場所に変えているのだろうか。

それは実は意外と単純で、オチを何個か考えておくということである。
しかし単純ではあるが、このオチを何個か考えておくということはものすごく難しいことなのである。
たとえば、「すべらない話」をしてオチであまりウケなかったときに、普通のトーク番組ではウケなくても司会者などがつっこんでくれたりもするが、「すべらない話」であると全て1人で話さなくてはいけない。
そこで、そのオチの保険としてのオチ、そしてその保険としてのオチの保険としてのオチというものを用意しておいて、その場の空気を読みながらそれらを話さなくてはいけないのである。
実はこのオチの保険を考えておくと、「すべらない話」以外の番組で使えることもある。
「ダウンタウン松本人志」はこの「すべらない話」のスピンオフ番組として、「人志松本の○○の話」という番組も行っている。
この番組内では、「ゆるせない話」や「ゾッとする話」といった企画を行っている。
このような「すべらない話」とは全くの別ジャンルと思われる企画でも、オチの保険を考えておくことによって「ゆるせない話」にも「ゾッとする話」なるのである。
実例を挙げておくと、松本人志の「すべらない話」で、『子供の頃、実家にはよくゴキブリが出るということで、ゴキブリの居場所を調べてみると、どうも水枕の裏にゴキブリが逃げ込んでいるようであった。そこで父親は一番ゴキブリに効きそうなアース(殺虫剤)、母は掃除機、松本人志本人は雑誌を持ってみんなでゴキブリを退治しようと考えた。父親が代表して水枕を退けた瞬間にそれぞれが退治しようと計画を立てて、いざ水枕を退けると、その水枕の形にゴキブリの大群がびっしりと蠢いていた。
そしてそれに対して人もゴキブリもびっくりして、ゴキブリは散らばるように走り出し、父親はあせってアースを家族に撒き散らしてしまった。』という話がある。
この「すべらない話」もオチを変えることによって「ゆるせない話」にも「ゾッとする話」にもなるのである。
この話のオチを『その水枕の形にゴキブリの大群がびっしりと蠢いていた。』という部分で終わらせていれば、この話は「ゾッとする話」になる。
そしてこの話に例えば『父親に「ふざけるな!」と怒った』という話を付け足すことによって「ゆるせない話」にもなったりもする。
他にもこの話で『父親が緊張しながら水枕を退けた』といった表現にしてしまうと、『あせってアースを家族に撒き散らしてしまう』というオチが予想できてしまい、面白くない話になってしまうかもしれない。
このようにオチを何個か考えておくということは保険でもあるのだが、言葉1つでどんな話にでもなってしまうため、ものすごく難しいのである。

よくこの番組を観た視聴者で、「こんな面白い経験をしていたら俺でも話せる」と言っている人がいる。
しかしこの「こんな面白い経験をしていたら俺でも話せる」と言っている人も、必ず大爆笑になるようなすべらない話になる経験をしているはずである。
しかしこの人は「すべらない話」には、このような構成があることを知らないから、「こんな面白い経験をしていたら俺でも話せる」と言っているのである。
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