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島田洋七

1970年「島田洋七」は笑福亭仁鶴の落語や、中田カウス・ボタンの漫才を観たのがきっかけで芸人になろうと決意した。
そこで笑福亭仁鶴に弟子入りを志願したが、言葉の訛りを理由に断られ、次に優しそうな島田洋之介に惚れ弟子入りを願う。
しかし同様の理由で弟子入り志願者が多く1度は断られ、毎日師匠の元に通い1ヶ月と4日目に弟子入りを許され芸能界入りを果たした。
そして1975年、島田洋七は後の「のりお・よしお」の上方よしおとB&Bを結成し、天性とも言えるスピード感溢れるしゃべりとセンスは、関係者の間で高い評価を受け、数々の賞を受賞することになる。
しかし東京進出を考える島田洋七と意見が合わずにB&Bを解散することになる。
そこで一度は引退を考えるが、花月劇場の進行役をしていた島田洋八とコンビを組み、そこからまた「B&B」として漫才を始める。
そして最初のほうにも述べたように、島田洋七は「B&B」というコンビを組み、テレビの歴史を変えた1980年代の「漫才ブーム」を牽引し、B&Bが東京で活躍しなければ、漫才ブームも起きなかったかもしれないとも言われるくらいの影響力があり、今テレビで大活躍する「島田紳助」が漫才師になるきっかけとなった人物であり、あの「ビートたけし」でさえ、島田洋七にだけは漫才で一度も勝つことが出来なかったとも言わせる人物となった。

しかし「漫才ブーム」が終わり、「笑ってる場合ですよ!」という番組も終わり、B&Bは解散することになり、同じく「漫才ブーム」で活躍した「ビートたけし」「島田紳助」とは違い、人気も急降下する。
再起を賭けて間寛平とコンビを組んだり、広島風お好み焼きの店を出したり、参議院議員選挙にも出馬するが全て失敗に終わる。

そんな状況のときに、漫才ブームのときから親交が深くなった「ビートたけし」と酒の席で、「ビートたけし」が家族の面白い話をした。
そこで島田洋七はその話に対抗し、恥ずかしい過去でもあり、あまり他人に話してなかった洋七のおばあちゃんの話をしたら涙を流してたけしが大笑いし、「絶対に本にすべき」とアドバイスされたことから、話をまとめて出版社に持ち込むことになる。
しかし、「お笑いの人にしては話が地味」として請けてもらえず、40社の出版社をまわったが出版できなかった。
やむなく、なんばグランド花月の楽屋やNHKのロビーにカンパ箱を置き、お笑い仲間、佐賀や広島の人達からもカンパを募り、東京の小出版社から1987年12月、自費出版で単行本にし、3000部を出版することになる。
しかしさほど評判になることもなく廃刊となっていたが、二度目の自費出版をした2002年には、自費出版では珍しい2万部を売上げ少しだけ話題となる。
そして徳間書店から出版させて欲しいと連絡があり「佐賀のがばいばあちゃん」と改題し、文庫化されると口コミで評判が広がり、それによって数々のテレビ番組に出版し、大きな反響を呼び、その後、増刷を重ねこの“がばいばあちゃん”シリーズ三部作はベストセラーとなり映画化・ドラマ化もされ、再び時の人となった。
“がばいばあちゃん”シリーズ総計で2008年7月には、670万部を越え韓国、台湾などでも出版されることになる。
更に最近では多数のテレビ出演ほか、「佐賀のがばいばあちゃん」を演目とした講演依頼が殺到、その回数は2009年には4000回を越え、講演の依頼は一番人気である。

しかし最近ではテレビに出演したときに、この「佐賀のがばいばあちゃん」は島田洋七が作った物語だと「ビートたけし」や「島田紳助」に言われることがある。
それを観た視聴者は「え?この話ウソなの?」と思ってしまうかもしれない。
もちろんこの話はウソである。
この「佐賀のがばいばあちゃん」は「ビートたけし」や「島田紳助」が言ったように島田洋七が作った物語である。
しかし全てがウソであるということでもない。
この「佐賀のがばいばあちゃん」とは、「B&B」というコンビを組み、テレビの歴史を変えた1980年代の「漫才ブーム」を牽引し、B&Bが東京で活躍しなければ、漫才ブームも起きなかったかもしれないとも言われるくらいの影響力があり、今テレビで大活躍する「島田紳助」が漫才師になるきっかけとなった人物であり、あの「ビートたけし」でさえ、島田洋七にだけは漫才で一度も勝つことが出来なかったとも言わせる「島田洋七」の天才的な笑いの構成力によって作られた物語なのである。

「佐賀のがばいばあちゃん」の面白さとはばあちゃんが残した数々の面白い名言である。
そして「佐賀のがばいばあちゃん」にはこのような名言がある。
「貧乏には二通りある。暗い貧乏と明るい貧乏。うちは明るい貧乏だからよか。それも、最近貧乏になったのと違うから、心配せんでもよか。自信を持ちなさい。うちは、先祖代々貧乏だから。」
これもこのばあちゃんが言ったことではなく、大体こういうようなことを言っていたということを島田洋七が名言となるように上手く構成したのである。
「人に気付かれんようにやるのが、本当の優しさ」
「つらか話は夜するなどがんつらか話も昼すればたいしたことなか」
「ケチは最低!節約は天才のすることばい」
「時計が左に回ったら、壊れたと思って捨てられる。人間も昔を振り返らず、前へ前へと進め!」
「鰯を食べてるからって、貧乏じゃない。昔の人が鰯を見て、鯛と名前をつけていたら、鯛は鰯ばい!」
「人間は死ぬまで夢をもて!その夢が叶わなくても、しょせん夢だから。」
これらの名言も全て島田洋七による構成によって名言になったのである。

つまり、「ビートたけし」や「島田紳助」が「佐賀のがばいばあちゃん」は島田洋七が作った物語だと発言するのは、このような「島田洋七」の天才的な笑いの構成力を賞賛するための芸人流の褒め言葉なのではないだろうか。
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