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島田紳助

本名、長谷川公彦

大学に入学をする時、漫才というものは若者向けではなく、子供からお年寄りまで誰が見ても聞いても面白いものが漫才だと思っていて、紳助は漫才にはあまり興味が無かった。
しかし、たまたま見た若者向けの新しい漫才である「B&B」の漫才を見て衝撃を受けたと語っている。
そこで紳助は、このB&Bの島田洋七を倒すことを青春の目標にしようと決めた。
そして、島田洋七に少しでも近付こうと、洋七の師匠である島田洋之助に18歳で弟子入りしたのである。

しかし弟子入りしてすぐに、同期の今の「オール阪神・巨人」の巨人の芸を見て、まともに戦っていては確実に、漫才でオール巨人に勝つことは出来ないと感じたという。
紳助は「誰かに少しでも負けていると思ったら、実際はだいぶ負けている。だいぶ負けていると思ったら、めちゃくちゃ負けている」と語っている。
この時紳助は、オール巨人にはめちゃくちゃ負けていると感じたのだろう。
しかし、この時に最初に負けていると感じたからこそ、その後の漫才師としての島田紳助があるのではないだろうか。
そしてそれは、紳助が漫才に興味を持つ前に感じていた「漫才というものは若者向けではなく、子供からお年寄りまで誰が見ても聞いても面白いものが漫才」だと思っていたというところに、島田紳助の漫才の原点があるのではないだろうか。

紳助は毎晩のように「やすきよの漫才を終わらせなくてはいけない」と同期の仲間に話していたという。
その当時、怖いもの無しであった「やすしきよし」の漫才を徳川幕府に、今の自分たち若手を幕末の志士に例え、その幕府を終わらせなくては、新しい漫才は出来ないという「倒幕論」を語り続けたという。
やすきよ漫才は、従来の漫才の究極の完成形のような漫才である。
だから子供からお年寄りまで誰が見ても聞いても面白い。
だからこれからの若手が、やすきよの漫才を追い越すことを目指しても、絶対に勝つことは出来ない。ましてや、当時のオール巨人でさえ勝てないと感じたのに、究極の完成形であるやすきよ漫才に敵うはずが無いと、紳助は考えていたのだ。
しかしその時に、その倒幕論を聞いていた人は、なぜやすきよ漫才を否定しなくてはいけないのかがわからなかった。
やすきよ漫才に憧れて漫才を始めたのに、やすきよ漫才を追い越すことを目指さないという意味がわからなかったからである。
しかし、結果的には紳助の言っていたことが正しかった。
それは紳助が、「今までの漫才というものは若者向けではなく、子供からお年寄りまで誰が見ても聞いても面白いやすきよ漫才のようなものが漫才だと思っていて全く興味が無かったが、たまたま見た若者向けの新しい漫才の原型であるB&Bの漫才から影響を受けて漫才を始めた」というところにあるのだ。

そもそも従来のやすしきよしを代表とする漫才とは、リアリティーが無くてテンポも遅い漫才である。
漫才とは、良くできた作り話を2人以上の掛け合いで行うものであった。
実際にはありもしなかった結婚や引っ越しを話題にし、起承転結のある「良くできた作り話」をお笑いが好きだという人に向けてやっていたのが従来の漫才であった。
また漫才でもコントでも、その時そうであるというリアリティーがなくては、観客は笑ってくれない。
だから従来の漫才は、作り話を本当にあったかのような演技や技術でリアリティーを表現しなければいけないものだった。
しかし、B&Bの漫才はそれと大きく違っていた。
B&Bの漫才は、今までは作り話だった漫才の嘘臭い部分を全てとっぱらい、今の世の中に合わせたリアリティーのある漫才であった。
リアリティーのある漫才は、世間話をしているかのようで、その人の心が見えるのでとてもパワーがある。
紳助はここに目を付けることで、演技や技術でリアリティーに見せるという技術が無かったとしても、やすきよ漫才に勝てるのではないかと考えたのである。
そしてその漫才が完成すると、やすきよ漫才は終わり、若手の漫才の時代が訪れるのではないだろうかというのが、紳助が毎晩のように語っていた倒幕論の内容である。
紳助がもしも、紳助の同期のようにやすきよ漫才を目指すために弟子入りをしていたとしたら、今の紳助は無かったのかもしれない。

そしてその倒幕論を実現させるため、紳助は若者向けの新しい漫才の原型であるB&Bの漫才を研究するために、島田洋七と毎日一緒に行動した。
そして紳助は相方を探し、自分を信じて付いてきてくれる松本竜介を相方にし、漫才コンビ「紳助・竜介」が誕生した。
そして島田洋七の漫才を研究して漫才をすることになる。
すると紳助・竜介の漫才を観た洋七に「ネタをパクるな」と怒られたという。
しかし観客には、そんなことが気付くはずがない。
紳助はB&Bの漫才の笑いのシステムをパクっていたからである。
紳助は漫才を始める前にまずは、B&Bの漫才をテープに録り、紙に書き出していった。そして他の漫才師のネタも同じ事をしていき、面白い所に赤線、すべった所には青線を引き、漫才というものはどこで笑いが取れるのか、なぜすべるのかを研究し、それからB&Bの漫才の笑いのシステムにオリジナルの違うボケを当てはめていったのである。
だから紳助は、ネタ自体は全くパクってはいないが、笑いのシステムをパクられたことを島田洋七は怒ったのである。
そして紳助はもう一つB&Bから重要な事をパクっている。
それは漫才のテンポである。
お笑いで一番難しいものは喋りの「間」である。
この「間」を、従来の漫才師は経験によって習得し、それを効果的に上手く使っていた。
しかし、B&Bの漫才は喋りの間を極端に減らし、一人が喋る時間を出来るだけ長くして、ボケの回数を増やすという工夫をしていた。
これによって従来の漫才よりも速いテンポで、ボケの量が多くなることで若者向けの漫才というイメージをつけることができた。
紳助はこの笑いのシステムと、テンポをB&Bの漫才から研究し自ら習得するために、島田洋七と毎日一緒に行動していたのである。

更に紳助は漫才だけではなく、自分には何が出来るのかということを自己分析した。
また売れるためには、この先どうなっていくのか予想しなくてはいけないと考え、この先どうなっていくのか予想するためには、今までの時代も分析しなければならないと、エンタツアチャコの時代の漫才までも研究し、その時代から今までの漫才の流れを読み、そしてこの先どうなっていくのかの流れを考え、その変わっていく時代の延長線上に自分のやるべき漫才があると考え実行した。

そして紳助は、その流れというものを考えると、女性向けに漫才をしていたら必ず落ち目が来てしまうということを考えていた。
人気が出ると、必ず若い女性がキャーキャーと劇場に詰め掛けるようになる。この女性たちには、その時は大抵何をしたってウケる。
しかし、この女性たちに向かって漫才をしていると、感性の鋭い同世代の人たちには全くウケなくなってしまう。
紳助・竜介の漫才は、今までに無かった漫才でパワーがあり、リアリティーのある漫才である。
そのすごさをわかっていた視聴者は、感性の鋭い同世代の人たちだけである。
つまり人気があるというだけでキャーキャーと劇場に足を運ぶ女性ではなく、紳助・竜介の本当のすごさをわかっている感性の鋭い同世代の人たちに向かって漫才をやらなければ、そのうち飽きられて必ず落ち目が来てしまう。紳助はそのように考えて、漫才ブームに乗りながらも、その後の流れまでも読んでいたのである。

そして更に紳助は、今までの漫才師との差別化を謀った。
それは人間味を表に出していくことだった。つまりキャラクターを作る事である。
作り話だった漫才の嘘臭い部分を全てとっぱらい、世間話をしているかに見えるため、その人の心が見え、とてもパワーがあり、リアリティーのある漫才をB&Bから盗んでいった。
しかし、リアリティーのある漫才をやっているのに、島田洋七の内面はあまり見えてこないと紳助は考えていた。
そこで紳助は、本当の自分をキャラクターにすることで、更に感情でリアルに伝えることができると考え、更に従来までの漫才師との差別化を謀ったのである。
そのキャラクターとは、紳助は元々不良で暴走族にも入っていた。高校では三者面談の際「長谷川君はこの学校のゴミだ」と言われたこともあるらしい(芸能界で活躍後は「この学校のホコリだ」と言われ、でも結局ゴミだということは変わらないと発言している)。
しかし暴走族でありながら、実は弱くてよく喋ることでいつも難を逃れているような不良だったと自分で言っている。高校生の時のあだ名は、泣きながら熱く将来の展望などを語ることから「泣き虫みー君」。
このような本性をキャラクターにすれば、漫才で感情が伝わり、よりリアリティーさが出ると考え、従来の漫才師ではあり得なかった、髪型をリーゼントにし、ツナギを着ることによって、不良だけどよく喋り弱そうだというキャラクターを作り上げ、更なる従来の漫才師との差別化を実現させたのである。
紳助・竜介は、漫才師は正月のしきたりでは、正月の舞台は紋付き袴と決まっていたのだが、実際に正月の舞台に出た時には、白のツナギの裏にマジックで「賀正」と書いただけで舞台に出たらしい。
もちろんそれは物凄く怒られたらしいが、紳助・竜介の漫才の完成度を考えると誰もやめろとは言うことができなかったというエピソードがあり、この時点でもう完全に従来の漫才師との差別化をすることが出来ていたのだ。

そうして、漫才ブームの先頭を走っていた紳助・竜介の漫才が完成したのである。
その完成された漫才で紳助・竜介は1979年に上方漫才大賞の新人賞、翌年1980年には花王名人大賞でも新人賞を獲得し、一気に全国区のタレントになり、バラエティ番組のオレたちひょうきん族にも出演することになった。

しかし、視聴者からはこれから順調に漫才の道を進むように思えた紳助・竜介は、突然解散することとなった。
しかし実は突然解散するように見えたのは視聴者だけで、1982年、紳助・竜介が結成5年目、紳助は26歳の時にはもう既に解散を考えていたという。でもその時は、会社や仕事の都合などで解散はできなかった。
そして、1985年5月紳助・竜介は解散することになったのである。
このときも、はっきりと負けを感じていたから解散したのだと紳助は言う。
その存在が「ダウンタウン」である。
その時はまだ紳助・竜介の人気は物凄いものであったが、そのうちに紳助はダウンタウンに追い越されてしまうと感じたという。
そしてオール巨人に負けたと感じた時と同じように「誰かに負けたと思ったら実際はだいぶ負けている。だいぶ負けていると思ったら実際はめちゃくちゃ負けている」ということをまた感じたのだろう。

紳助はダウンタウンから逃げたと考えられてしまうが、芸能界では、比べられて下に見られたら、そこからまた這い上がってくることは安易ではない。
それなら観客が気付かない内に、今の人気を利用して、別の道に進んだ方が良いと紳助は考えたのである。
そして紳助はその道を、司会という道に変えた。

しかし紳助は、その時にまた負けを感じていた。「誰かに少しでも負けていると思ったら実際はだいぶ負けている。だいぶ負けていると思ったらめちゃくちゃ負けている」とまた感じたのだろう。
その時に負けを感じたのは、同期の「明石家さんま」である。
この明石家さんまにも、めちゃくちゃ負けていると感じたという。
しかし、この時も司会業に変えるときに負けていると感じたからこそ、今の司会者としての島田紳助があるのではないだろうか。

明石家さんまは天性の明るさがある。
この明るさによって、視聴者には普通のことなのにめちゃくちゃ盛り上がって見えているのだ。
野球で例えるなら、明石家さんまは長嶋茂雄のような選手で、普通のサードゴロをファインプレイに見せてしまう魅力が明石家さんまにはあると感じたと紳助は言っている。
だから紳助は、明石家さんまとは違う、テレビというものを上手く使い、自分にしか出来ない司会を目指した。

それは、紳助は自分の出来そうな仕事しかしないという事であった。
なぜなら、負ける相手とは勝負をしないためである。
しかし、自分の出来そうな仕事しかしないのに、紳助は今やゴールデンの時間帯で冠番組を何本も持っている。
紳助の出来ないことなど無いのではないかとも感じられ、しかもなんでも詳しいという評価を視聴者はすると思う。
しかし、これらのイメージは全てテレビを上手く使った紳助のテクニックである。
つまり紳助はこのテクニックを使い、何本ものゴールデン番組をやっているのだ。
紳助は新聞も本もほとんど読まないと言う。しかし紳助はニュース番組をやっていた時もあるし、いろんな知識を持っている。
それはなぜかというと、紳助は本当に自分の出来そうな仕事しかしないからである。
そのテクニックとは、まず一般の人が言う賢い人というのは、一つの分野のスペシャリストの事を言う。
ラーメンが詳しい人はラーメンについてはどんなことも知っていなくてはいけないため、いろんな地域のラーメンを食べに行かなくてはいけない。
しかし司会という仕事は、一つの分野の知識だけではなく、その番組でやる全ての企画のスペシャリストでなければならない。もちろん紳助にそんな全てのスペシャリストになる時間など無い。
でも紳助は全てのスペシャリストであるように見える。
なぜ紳助が全てのスペシャリストに見えるかというと、一分野につき一ヶ所を掘り下げてそこだけを熱く語り、全部知っているかのように話しているからである。

どういうことかというと例えば、
あるトーク番組に出たとしてその日のトークテーマはインスタント麺。
6人のタレントがいて、まず一人ずつ好きなインスタント麺を聞いていく。ここでのベストの答えは・・・
「カップヌードル」「UFO」「赤いきつねと緑のたぬき」
これらの超有名インスタント麺を好きだと言っても視聴者は食い付かない。「この人もこれが好きなんだぁ」と思われるだけである。
そこで「焼きそば弁当」と言ったらどうなるだろうか。
視聴者は「何それ?」と思うはずである。
そしてそのマイナーな焼きそば弁当というインスタント麺について熱く語るのである。
「焼きそば弁当は、北海道限定のカップ焼きそばで、何が良いかと言いと、従来のカップ焼きそばはお湯を入れたら、湯切りをしてお湯を捨てなくてはいけない。世界では満足に水も飲めない人がいるのにお湯を捨てるのはどうかと思う。しかし、この焼きそば弁当は、その本来は捨てるはずのお湯をスープにすることで勿体無くもないし、焼きそばに更にもう一品スープが追加される。そしてそのスープは、麺からのダシが出ているお湯を使っているからとても美味しい。だから焼きそば弁当が一番好きだ。」と熱く語るとする。
すると視聴者は、この人はめちゃくちゃインスタント麺について詳しいと感じるのである。
物凄くマイナーで地方限定のインスタント麺について熱く語ると、視聴者は「こんなマイナーな情報を知っているのだから、有名なインスタント麺についても詳しいはずだ」と思うのである。
でも実は焼きそば弁当にだけ詳しくて、他のインスタント麺については全く知らないとしても・・・
そして更に紳助は否定する技術を使う。
その番組でUFOの話を振られたとする。しかしUFOについては全く知らなかったとしても、焼きそば弁当にさえ詳しかったら、後は否定をすれば良いだけなのである。
「UFOは確かに美味しい!でも焼きそば弁当がこれだけ世界の恵まれない国々のことを考えているのに、そこまでは考えていないUFOをこれから好きになることはできない。」
というようなことを言っておけば、誰もUFOについて何も知らないとは感じないはずである。

でも、この話を一時間も喋り続けたらさすがにバレてしまう。
しかしテレビというものは、一人の人間にそんなに喋る時間を与えてくれない。
テレビで喋らせてくれる時間は一人30秒までである。それを超えたら誰も聞いてくれない。
つまりこの一分野につき一ヶ所を掘り下げてそこだけを熱く語り、全部知っているかのように話し、後は否定する技術を使えば、この人はインスタント麺について何でも知っていて、特に焼きそば弁当が一番好きだというイメージが付いたまま番組は終わるのである。

紳助はこのテクニックを応用し、それを自分の出来そうないろいろな番組で繰り返し使っていき、知識がある面白い司会者として「サンデープロジェクト」などの番組で司会をして地位を築き、明石家さんまとは全く違う、お笑い出身の司会者として、今の地位にまで登り詰めたのだ。


このように島田紳助は歴代の漫才というものから研究し、そこから自分は何が出来るのか、どうすれば漫才で他の漫才師に勝つことができるのかを分析し、実際に漫才師として成功を収めた。
そして更に、司会者になりテレビというものも研究し、今でも活躍し続けている。
このように、歴代の番組を研究し、最近の番組までの流れを読み、その時に流行った番組やタレントがなぜ売れていったかということを調べると、紳助のように、「これからのテレビには何が求められているか」ということが見えてくるかもしれない。
そのために番組やタレントについて考えてみようと思う。

まずは、島田紳助が司会者になって番組でどのように今の地位にまで築き上げていったかを考えてみようと思う。
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B&B 1

この頃のB&Bは、アイドル的人気を得ていて、芸人では有り得なかったブロマイドが売れるという現象まで引き起こし、B&Bが東京で活躍しなければ、漫才ブームも起きなかったかもしれないとも言われるくらいの影響力があり、そのため仕事も超多忙で、月給が最高の月は8000万円、4年間で32億円稼いだという逸話もあるほどである。
この人気は島田紳助の時にも述べたが、B&Bの漫才は若者向けの新しい漫才をしていたからである。
そのB&Bの漫才にも原型があり、浮世亭ケンケン・てるてるという漫才に影響を受けて、若者向けの新しい漫才が完成したのだという。

ザ・ぼんち 1

ザ・ぼんちは、漫才ブームの頂点を極めたコンビである。
この当時、大阪~東京の会場をヘリコプターで往復していて、楽屋で過労防止のために点滴を打っていたとも言われているほど、多忙で人気もあった。
1981年には、「恋のぼんちシート」でレコードデビューし、売上80万枚、オリコンでは最高位2位になるほどの大ヒット曲となり、この歌で日本武道館を満員にした初の漫才師となった。

B&B 2

B&Bは、浮世亭ケンケン・てるてるという漫才師の漫才に影響を受け、若者向けの新しい漫才で漫才ブームの先頭を走った。
しかし、B&Bは漫才ブームに少し陰りが見え始めると、人気が一気になくなっていった。
それは、B&Bの漫才は覚えられやすいフレーズをネタに入れて、それを多用し、楽に笑いを取りにいってしまっていたからである。
B&Bの漫才の中には「もみじまんじゅう!」というギャグや、当時アフロヘアーだった洋八の頭に向かって「小野田さ~ん!」というギャグや、笑いながら「メチャメチャ陰気やで~」「リンゴとみかん、どっちがバナナ」などの覚えられやすいフレーズを漫才の中に取り入れていた。
そのフレーズによって、同じように新しい漫才であった紳助・竜介やツービートなどの漫才師よりも早く視聴者に覚えられて人気が出た。
しかしこのフレーズは、使いすぎると飽きられてしまうものである。
それは、この漫才ブームとは「島田紳助」でも述べたが、従来は作り話であった漫才の嘘臭い部分を全てとっぱらい、世間話をしているかに見え、その人の心が見えるためにとてもパワーがあり、リアリティーのある漫才をテレビで広めたのが漫才ブームであった。
しかしB&Bの漫才は、初めはリアリティーのある漫才であったのに、毎回同じフレーズを使ってしまっていたことで、リアリティーのある漫才ではなくなってしまっていたのである。
そのためB&Bは、漫才ブームに少し陰りが見え始めると、真っ先に人気が一気になくなってしまったのだ。

ザ・ぼんち 2

この「ザ・ぼんち」も、漫才ブームに少し陰りが見え始めると、真っ先に人気が一気になくなってしまった。
このザ・ぼんちの漫才はB&B、紳助竜介、ツービートとは違い、全く新しい漫才ではなかった。
だからといって技術のある漫才というわけでもないと思う。今、ザ・ぼんちの漫才を見ても何がなんだか全然わからないからである。
ではこのザ・ぼんちはなぜ人気が出たかと考えると、それは外見だとしか考えられない。
その頃の芸人は、アイドルのような人気があった。
ぼんち・おさむはアメリカのジェリー・ルイスという俳優のファンで、髪型やダンスなどを真似していたため、女性人気が出たのだろう。
その外見と、「おさむちゃんで~す」という覚えられやすいフレーズで漫才ブームの先頭を走ったのではないだろうか。
しかしそのフレーズは、B&Bで述べたのと同じようにすぐに飽きられてしまい、外見で人気を得ていたが、実はザ・ぼんちはもうその時既に30歳を超えていたため、一時的にアイドルとなっただけで、すぐにテレビから姿を消す形となってしまった。
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