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漫才ブーム 1

1980年頃に漫才ブームが起こった。このようなブームは漫才ブームの前にも、2度10年周期でお笑いブームが起きている。
1960年代には落語家や伊東四朗のいたてんぷくトリオなどの第一次寄席ブーム。
1970年代にはやすしきよし、コメディーNo.1、中田カウス・ボタンなどの芸人たちによる第二次寄席ブーム。
そして1980年の漫才ブームという流れがある。
このブームがなぜ起こるかというと、それは関西芸人の全国ネット進出があるためである。
吉本興業の持っている梅田花月、なんばグランド花月、京都花月で日々修行を繰り返されてきた芸が、全国ネットでは全く未知のタレントとして扱われ、関西芸人の中でも選りすぐりの芸人達が、貯蓄していたパワーを、わずか数ヵ月で一気に放出するためにこのブームが起こるのである。
そして更に関西芸人は、関西弁という魔法の言葉を使う。
これによって関西弁を話しているだけで面白い人。関西弁で会話をしているだけで漫才のように聞こえるといったようなイメージを一気に全国ネットで広めたのである。

そして更に漫才ブームは、これまでの芸能界のシステムを大きく根本的に変えた。
第一次、第二次ブームの時は、ただ単にお笑い芸人達の仕事がその時に飛躍的に伸びて、ブームが過ぎると元の劇場に戻るという現象にしか過ぎなかった。
しかし漫才ブームは違った。
それまでの芸能界は、カースト制度のような階級制が存在していて、俳優、歌手、アイドル、そしてそのずっと下に離れてお笑い芸人があるという感じであった。
それが漫才ブーム以降になると、お笑いの地位は飛躍的に向上して、今までは演芸場の延長線上でしかなかった漫才の客層が大きく変化し、若い女性を中心とするファンが増え、番組の添え物、歌手や俳優の引き立て役ではなくなり、常に番組作りの中心にいて、時代や文化を常にリードする存在へとなったのである。

そして、その漫才ブームの先頭を切って走ったのが、「B&B」と「ザ・ぼんち」の2組である。
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漫才ブーム 2

しかし、このブームはB&B、ザ・ぼんちらの芸人だけが作ったブームではない。
実はこのブームは、あるプロデューサーが火付け役であった。

それは1979年の秋から、澤田隆治というプロデューサーが、かなり画期的でかつ大胆な企画を出して始まった「花王名人劇場」という番組が漫才ブームの火付け役である。
この番組から、今現在でも使われる2つの技術をこの番組から始めたのである。

1つ目の技術とは、
番組の収録で「激突!! 漫才新幹線」というタイトルで公開録画という形で番組の撮影が行われた回がある。
メンバーは、あらんどろん、B&B、ザ・ぼんち、ツービートというメンバーである。
しかし、こんなメンバーがいながら、この番組はそのまま放送されなかった。
そしてその次の回の収録の際に、「第二回 名人芸を見逃すな!」というタイトルで公開録画された「やすし・きよし、セント・ルイス、B&B」の漫才を、「激突!! 漫才新幹線」のタイトルで放送されたのである。
また、「漫才十八番」というタイトルで録画された「ゆーとぴあ、Wけんじ、正司敏江・玲児、青空千夜・一夜」の出演番組と、
「特選十八番集決定版 これが漫才だ!!」というタイトルで録画された、「レッツゴー三匹、内海圭子・好江、獅子てんや・瀬戸わんや、玉川カルテット」の出演番組を、
「漫才決定戦」というタイトルで、「ゆーとぴあ、Wけんじ、レッツゴー三匹、内海圭子・好江」のメンバーで放送した。
これが1つ目の画期的な技術なのである。

なぜこのようなことをするのかというと、それは演芸とは水物だからである。
その日の調子や客の感じで、ウケ方はまるで変わってしまう。毎回毎回漫才師が100パーセントの実力を発揮できるとは限らない。
それまでの普通の公開録画をそのまま放送しているというやり方では、たとえウケない芸人がいたとしても放送しなければならなかった。
しかし、このように出来が悪い漫才は、放送しないようにすると、いつもベストな組み合わせで番組が出来上がり、しかも芸人のほうも、出来が悪ければ放送されないとなると必死で頑張るというわけである。
これによって芸人も鍛えられ、番組のほうも面白い芸人しか出ないというイメージを印象付けることができた。

そして2つ目の画期的な技術は、漫才師が漫才をしている時に、その漫才師じゃない場所もカメラで映すということだった。
その場所とは客席である。
客席は笑い声があれば良いのだから、マイクが客席にあれば良いのではないかと思うのだが、澤田プロデューサーはその客席の笑いを、編集によって漫才の随所に差し込むことによって、ウケていない漫才であってもウケているように見せるというマジックを使ったのである。
つまり、あまりウケの良くない漫才師のボケの後に、やすし・きよしに笑っている客席の画を差し込むのである。
そうすれば、そのコンビはいかにも面白いというイメージを印象付けられ笑いをちりばめるので、番組全体がウケているように演出することができるのである。

この2つのことを澤田プロデューサーが始め、漫才ブームが起こったのである。
そしてこの2つの技術はその後、エンタの神様のプロデューサーである五味一男プロデューサーが引き継ぐことになる。

漫才ブームの終焉

漫才ブームとは、従来は作り話であった漫才の嘘臭い部分を全てとっぱらい、世間話をしているかに見え、その人の心が見えるためとてもパワーがあり、リアリティーのある漫才をテレビで広めたのが「漫才ブーム」である。
しかしどの芸人も、初めは見たこともない漫才であったため、リアリティーがあるように見えていたが、そのうち何回も漫才をしなくてはいけない場が増え、リアリティーのある漫才ではなくなってしまっていたのである。
そのためにそれらの漫才は飽きられてしまった。
そしてアイドルのような人気があった芸人も、一時的にアイドルとなっただけで、テレビから姿を消す形となった。
こうして漫才ブームは終焉したのである。

今までの第一、第二ブームの時のように、元の劇場で漫才をする生活に戻った芸人や、
「ビートたけし」、「島田紳助」のように漫才ブームをきっかけにテレビの司会で大活躍するようなタレントになったり、
コンビを解散し別の仕事をするような人もいた。

お笑いネタブームのまとめ

お笑いのネタ番組はこれ以外にも数多く存在している。
しかし世の中の流れに影響があったのは、これらのネタ番組であると思う。

流れをもう一度整理すると、
1960年代には、落語家や伊東四朗のいたてんぷくトリオなどの第一次寄席ブーム。
1970年代には、やすしきよし、コメディーNo.1、中田カウス・ボタンなどの第二次寄席ブーム。
1980年代には、やすしきよし、ツ―ビート、紳助竜介、B&B、ザ・ぼんちらがブームを起こし、芸能界のシステムを大きく根本的に変えた「漫才ブーム」。
そしてもう一つ漫才ブームを支えたのが若手芸人のオーディション番組である「お笑いスター誕生!!」
1990年代には爆笑問題、くりぃむしちゅー、ネプチューン、土田晃之らが出演しいて有名になったボキャ天ブーム。
そして2000年代には「エンタの神様」、「レッドカーペット」、「M-1グランプリ」などの番組が作ったお笑いブーム。
という流れがあった。

こう見てみると、10年おきにネタブームが起きているということに気付くはずである。
M-1グランプリやR-1ぐらんぷり、キングオブコントなどの特別番組が、この先どうなるかはまだわからないが、長かった2000年代のブームはもう終わるだろう。
しかし今はもう2010年である。
10年おきにネタブームが起きるとしたら、これからまたすぐにインターネットなどを使い、違う形でブームが始まるのではないかとも考えられるが、次にまた何が流行るかわからないということを考えると、これからのことなど全くわからない。
しかし、なぜこんなに2000年代のお笑いブームは、こんなに長かったのかということは考えることができる。

まず、テレビを変えた1980年代の漫才ブームから考えてみると、
1980年代の漫才ブームは、実質2年くらいのブームである。
1979年の秋から澤田隆治というプロデューサーが、「花王名人劇場」でブームを作り、その流れで、ここには全く書いてはいないが「THE MANZAI」という番組で漫才ブームになったが、1982年にはその番組は終わり漫才ブームも終わっている。
1990年代のボキャ天ブームは、「タモリの超ボキャブラ天国」という番組が1996年10月から始まったと考えて、終わったのはパイレーツが流行語大賞を取った1998年くらいまでだろう。
つまりボキャ天ブームも2年くらいのものである。
しかし2000年代のお笑いブームは、エンタの神様からブームが始まったと考えても2003年から、2009年くらいまでで6年くらいである。
つまり今までのブームよりも3倍近い期間、お笑いブームは続いたのである。

それはなぜなのかということを考えてみると、2000年代お笑いブームとは、1980年代の漫才ブームと、1990年代のボキャ天ブームの2つの要素を合わせたのがお笑いブームだからではないだろうか。
エンタの神様という番組は、漫才ブームの火付け役となった澤田隆治プロデューサーの技術である「出来が悪ければ放送しない」「客席の笑いをちりばめる」という2つの技術を、エンタの神様のプロデューサーである五味一男プロデューサーが引き継ぎ、それをうまくアレンジして流行らせた番組である。
爆笑レッドカーペットという番組は、「ダチョウ倶楽部」のリアクション芸や「ウッチャンナンチャン」のショートコント、そして「タモリの超ボキャブラ天国」のショートスタイルのネタのブームを、10年越しにまた少し違う形で「爆笑レッドカーペット」が引き継ぎ、それをうまくアレンジして流行らせた番組である。
このように2000年代のお笑いブームとは、1980年代の漫才ブームと、1990年代のボキャ天ブームの2つの要素を合わせたのがお笑いブームなのである。
だからお笑いブームは、今までのブームよりも3倍近い期間、お笑いブームは続いたのではないだろうか。

つまりこれらのお笑いのネタブームについて、これを踏まえて考えてみると、
次にお笑いのネタブームが起こったときにも、よく考えてみるとまたなにかをアレンジした番組であるという可能性は非常に高いと考えられる。
しかしもしかしたら、今までには全く無かった革命的な番組であるのかもしれない。

吉本男前ランキング

お笑い芸人に関するランキングというようなものを、雑誌などではよく特集が組まれていて、インターネットのサイトでもよく行われている。
果たして、このようなランキングをやると、芸人にとってどのような影響が出てくるのかということを考えてみようと思う。

まず注目したいランキングは、2000年から始まり、毎年恒例になっている月刊誌「マンスリーよしもと」で企画されている、吉本興業に所属している男性のお笑い芸人の男前を決める「吉本男前ランキング」というランキングに注目したい。
「吉本男前ランキング」とは、3年連続で1位を獲得すると殿堂入りとなり、全国の女性ファンは、好きな男性お笑い芸人を殿堂入りにさせたいという思う人が多いため、年を重ねる毎に、全国的に知名度も上がっていて、吉本芸人限定のランキングではあるが、最近ではマスコミにも大きく紹介され、月刊誌「マンスリーよしもと」が1年間で一番多く売れる号であり、発行される部数もその月が一番多い。

しかしこの「吉本男前ランキング」は、毎年マスコミでも大きく紹介され、月刊誌「マンスリーよしもと」が1年間で一番多く売れる号であり、発行される部数も一番多いのにもかかわらず、あまり影響力のあるランキングであるとは言えないのではないだろうか。

それを証明するために、まず2000年から「吉本男前ランキング」で1位になった芸人を調べていくと、
2000年~2002年 田村亮(ロンドンブーツ1号2号)
2003年~2005年 徳井義実(チュートリアル)
2006年~2008年 井上聡(次長課長)
2009年、2010年 藤原一裕(ライセンス)
※ 田村亮、徳井義実、井上聡の3人は3年連続で1位となり、殿堂入りとなっている。

この結果を踏まえて、1位になった芸人が全国的に有名になった時期を考えてみようと思う。
まず、2000年~2002年に1位になったロンドンブーツ1号2号の田村亮は、このランキングで、その当時の人気を改めて実証したというだけである。
なぜならロンドンブーツ1号2号は、1993年に結成してわずか2年で人気芸人となっていて、2001年には「Re:Japan」として紅白歌合戦にも出演していたくらいの人気があった。
つまり、ロンドンブーツ1号2号の田村亮は、このランキングで、その当時の人気を改めて実証したというだけなのである。
2006年~2008年に1位となった次長課長の井上聡も、このランキングで、その当時の人気を改めて実証したというだけである。
次長課長は、2005年1月1日放送の「こっちも生だよ芸人集合! 今年最も売れる吉本No.1決定戦 やりにげGO'05」という番組内の占いで、今年最も売れる芸人の第1位に選ばれたのが井上で、逆に最下位に選ばれたのが河本という奇跡的な結果が発表される少し前から、次長課長は全国的に人気が出ていたのである。
つまり、次長課長の井上聡も、このランキングで、その当時の人気を改めて実証したというだけなのである。

2003年~2005年に1位となったチュートリアルの徳井義実は、その当時、全国的にはそんなに有名ではなかったが、「爆笑オンエアバトル」などにはよく出演していて、既にイケメン芸人としては有名だった。
そのため田村亮が殿堂入りした後の、2003年~2005年には1位となったのである。
でもそれだけでは、チュートリアルの徳井義実自身は、このランキングでその当時の人気を改めて実証したと言うことはできないのかもしれない。
しかしこの徳井義実ではなく、その相方であるチュートリアルの福田充徳が、このランキングで、その当時の人気を改めて実証したのである。
チュートリアルが2006年末に「M-1グランプリ」のチャンピオンになり、全国的に有名になった後に、福田充徳は「吉本男前ランキング」で、
2008年 5位、2009年 6位、2010年 15位
という成績を収めてしまっているのである。
確かに福田充徳は、昔よくネタにされていた顔がテカテカであるということは、今ではある程度解消されているし、歯を仮歯から本歯に入れ替えたということも言っているし、ペン回しが上手く、日本ペン回し協会の会長も福田充徳はペン回しが上手いということを知っているし、バイクを多く所有しているし、料理を作ることも上手い。
しかし福田充徳は福田充徳である。
この福田充徳が「吉本男前ランキング」で、2008年 5位、2009年 6位、2010年 15位という成績を収めているのは、間違いなくチュートリアルの福田充徳も、このランキングで、その当時の人気を改めて実証したからなのである。

2009年、2010年に一位となったライセンスの藤原一裕も、今はまだ全国的には有名ではないが、2006年の「M-1グランプリ」に敗者復活組で出場しているし、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」にも出演しているし、最近では和田アキ子に気に入られて、「アッコにおまかせ!」にも準レギュラーとして出演している。
つまり、ライセンスの藤原一裕も、このランキングで、その当時の人気を改めて実証したというだけなのである。
これを踏まえると、この「吉本男前ランキング」というものは、ただ単にその芸人の、その当時の人気を改めて実証したというだけのランキングなのである。

しかしここで疑問に思うことが出てくる。
ロンドンブーツ1号2号の田村亮、次長課長の井上聡、チュートリアルの福田充徳は、このランキングで、その当時の人気を改めて実証しながら、今では全国的に有名なお笑い芸人になっている。
しかし、ライセンスの藤原一裕は、このランキングで、その当時の人気を改めて実証してはいるが、全国的に有名なお笑い芸人になっているとは言い難い。
それはなぜなのだろうか。

それはまだライセンスの藤原一裕は、2年しか1位を取っていないからということもあるだろうが、それだけだとは思えない。
それはライセンスの藤原一裕は、「吉本男前ランキング」で1位を獲得したということでしか、視聴者にアピールをできていないからではないだろうか。
ロンドンブーツ1号2号の田村亮は、相方である田村淳のMCの技術が凄過ぎるから有名芸人であるため、今はひとまず田村亮の話題は置いておいて、
チュートリアルの徳井義実は、「吉本男前ランキング」で1位を獲得しているが、実は変態だというキャラクターでいろいろな番組や女性誌にも多く出演している。
次長課長の井上聡も、「吉本男前ランキング」で1位を獲得しているが、物凄くゲームやアニメが好きで、仕事の無い日はいつも家でゲームをしているなどのエピソードがあり、モンスターハンターというゲームのCMに出演していたりもする。
しかし、ライセンスの藤原一裕は、「吉本男前ランキング」で1位を獲得しているということ以外は、あまり特徴が無いといっても良い。
そして、藤原一裕の相方の井本貴史は、ロンドンブーツ1号2号の田村亮の相方である田村淳のように、今はまだMCを任せられる存在でもないし、「M-1グランプリ」では決勝に進出してはいるが優勝はしていないため、チュートリアルの福田充徳のような知名度も無い。
だからライセンスの藤原一裕は、「吉本男前ランキング」で1位を獲得しているのにもかかわらず、一般的なアイドルのような男前とは違い、チュートリアルの徳井義実や次長課長の井上聡のように、決して男前の特徴とは言えないという特徴が無いため、「吉本男前ランキング」でその当時の人気を改めて実証していながら、まだ全国的に有名なお笑い芸人にはなっていないのではないだろうか。

つまり、「吉本男前ランキング」で1位になった芸人は、このランキングに選ばれたからといって、全国的に有名なお笑い芸人にはなっていないということを考えると、毎年マスコミでも大きく紹介され、月刊誌「マンスリーよしもと」が1年間で一番多く売れる号であり、発行される部数も一番多いのにもかかわらず、あまり影響力のあるランキングとは言えないのではないだろうか。

そして、この「吉本男前ランキング」とは、ただ単に男前の吉本芸人を紹介するだけのランキングではなく、チュートリアルの徳井義実や次長課長の井上聡のように、男前でありながら、決して男前の特徴とは言えない特徴があるというギャップを、視聴者に見せるためのきっかけとなるランキングなのではないだろうか。
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